歴史

哲学専修のあゆみ

本専修の前身、哲学哲学史第一講座(哲学)は、1906年(明治39)の文科大学の創設と同時に設置された。以来、哲学講座・専修は文科大学・文学部と共に年を重ね、本年開設100周年を迎えるが、その間、在籍した歴代教授・助教授は以下の12名を数える。桑木嚴翼(生没年1874~1946: 教授在職期間1906~14)、朝永三十郎(1871~1951: 助教授着任1907:1913年哲学哲学史第四講座(近世哲学史)教授に昇任)、西田幾多郎 (1870~1945: 教授在職 1914~28)、田邊元(1885~1962: 助教授着任1919: 教授在職1927~45)、高山岩男(1905~93: 助教授着任1938: 教授在職1945.3月~8月)、山内得立(1890~1982: 教授在職1945~53)、三宅剛一(1895~1982: 教授在職1954~58)、野田又夫(1910~2004: 教授在職1958~74)、辻村公一(1922~ : 教授在職1974~85)、木曾好能(1937~94: 助教授着任1973: 教授在職1988~94)、伊藤邦武(1949~: 助教授着任 1991: 教授在職1995~ )、出口康夫(1962~: 助教授着任 2002: 准教授在職 2007~2015: 教授在職2016~)、大塚淳(1979~: 准教授着任 2017~)。

戦前の西田幾多郎・田邊元両教授の下での、いわゆる「京都学派」の隆盛。その学派の後継者と目された高山岩男教授の公職追放。その後の学風の転換と変遷。「純哲」と称された本講座・専修の歩みは、単なる一教室の歴史を超えて、京都大学全体の歴史、ひいては日本の近現代思想史の重要な一コマともなっている。ためしに、時計台記念館の歴史展示室をのぞいてみよう。そこでは、西田・田邊の哲学的業績と、京都学派の哲学者たちの公職追放を巡るドキュメントが、湯川秀樹・朝永振一郎のノーベル物理学賞に輝く業績と並んで、京大の学問伝統を象徴する二本の柱の一つとして取り上げられている。また近年、竹田篤司氏が『物語「京都学派」』(中公叢書, 2001)で、戦前から戦後にかけての「純哲」の歴史を、その周辺の人物のエピソードをも交えて描き、評判をとったことも記憶に新しい。

このように長い伝統を持つ本講座・専修の歴史にかんしては、既に『京都大學文學部五十年史』(1956)や『京都大学百年史』(1997)に詳細な記述がある。そこで以下では、主として過去30年程の期間を念頭において、教室の歩みを振り返ってみることにしたい。

戦前から戦後にかけて、幾たびもの研究スタイルの変遷を重ねてきた哲学教室であるが、近年見られる大きな変化の一つは、ドイツ哲学の圧倒的な影響が弱まり、代わってフランス語圏や、特に英語圏の哲学の影響が強まってきていることであろう。初代の桑木教授から辻村教授まで、歴代スタッフの留学先は、かつてはドイツと相場が決まっていたが、木曾教授以降のスタッフの留学先は英語圏へと移ってきている。大学院生や卒業生の留学先に関しても同様の傾向が見られる。ドイツ語圏から英語圏へ。哲学のみならず科学の各分野において第二次大戦後、世界規模で起こったヘゲモニーの交替劇が、この教室の研究動向にも一定の影を落としているのである。

とはいえ本専修では、分析哲学を中心とする現代英米哲学の研究一辺倒というスタイルはとられていない。過去30年の講義題目や歴代スタッフの研究テーマを見れば、17世紀の認識論や形而上学、イギリス経験論、ライプニッツ、カント、ドイツ観念論、ハイデッガー、アメリカのプラグマティズムといった近現代の古典的な哲学の研究が、現代哲学の最前線の研究とあいまって行われてきたことがわかる。古典的な哲学についての正確で幅広い知識を踏まえ、現代の哲学的な諸問題に取り組むという姿勢が、近年の哲学教室においても基本的なスタンスとして採用されているのである。

また海外との交流が盛んなことも本専修の特徴である。研究室の大学院生や卒業生が英語圏・フランス語圏・ドイツ語圏の各大学に相次いで留学しているのみならず、海外から本教室に学びに来る学生も跡を絶たない。さらに長期・短期さまざまな形で研究室を訪れる海外の研究者も数多い。例えば2000年以降に限っても、ウェスリー・サーモン教授(ピッツバーグ大学)、ヒュー・メラー教授(ケンブリッジ大学)、グレアム・プリースト教授(メルボルン大学)、ドナルド・ギリス教授(ロンドン大学)が相前後して本専修に数週間から数ヶ月間滞在し、専門家向けの講演や学生向けのセミナーを数多く行うことで、本教室の学生・院生のみならず日本の学界一般に対しても少なからぬ影響を与えた。このような国外の研究者との直接の交流は、2002年から始まった文学研究科COEプロジェクトによって、より一層、進展している。

本専修は、文学部の哲学思想系の専修の中では昔も今も変わらぬ大所帯であり、多くの学生・院生・ODを抱えている。そのせいもあり、読書会など、学生・院生の間での自主的な研究活動が盛んなことも、本教室の特徴の一つとなっている。そのような教室内の研究活動の反映として、哲学専修では、近世哲学史専修と協同で、大学院生が主体となり、1974年以降、雑誌『哲学論叢』を年一回刊行しており、同誌は30年以上の歴史を重ねるにいたっている。また1997年からは、哲学専修の紀要として『Prospectus』が新たに発刊され、哲学プロパーの研究のみならず、応用哲学的なトピックや現代文化一般についての思索の発表の場となっている。昨今は、修士課程の院生も論考を進んで寄稿するなど、これらの雑誌を舞台とした院生の研究活動はますます盛んになりつつある。

さらに文学部の大学院重点化の結果、本専修でも課程博士論文の提出とそれに対する博士号の授与が積極的に行われるようになり、その数は今日までで14名にのぼる。また選ばれる研究テーマも、デカルト・スピノザ・ロック・ヒューム・カント・ヘーゲル・ラッセル・ウィトゲンシュタイン・西田とハイデガーの比較研究・現代の論理学の哲学と多岐にわたっている。

一つの言語圏にとらわれない哲学史の深い理解、さらには科学や宗教・東洋思想をはじめとする他の学問や思想伝統に対する開かれた目。これらを十分身につけた上で、自らの哲学的な立場を築くこと。これこそが、対象となる哲学の分野や置かれる力点は異なっていても、わが「純哲」が国内外に誇る戦前・戦後を一貫した研究姿勢である。このようなオーソドックスだが本格的な哲学研究の姿勢は、西田・田邊の時代から長い歴史を経て、今日でも若い院生・学生に脈々とそして着実に受け継がれつつあるのである。

(出口康夫記)『京都大学文学部の百年』(2006)より転載

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1913年(大正2年)頃の教官と学生。中央が西田幾多郎。右隣は、朝永三十郎。左隣、桑木厳翼。右隣、天野貞祐。

1941(昭和16年)。左から高坂正顕、木村素衛、波多野精一、朝永三十郎、田邊元、天野貞祐、高山岩男、手前が西谷啓治。

1941(昭和16年)。左から高坂正顕、木村素衛、波多野精一、朝永三十郎、田邊元、天野貞祐、高山岩男、手前が西谷啓治。

1983(昭和58年)、哲学・西洋哲学史合同ハイキング、京都・大原野神社。最前列左から三人目、辻村公一、右隣、木曽好能、最後列左から二人目、伊藤邦武。

1983(昭和58年)、哲学・西洋哲学史合同ハイキング、京都・大原野神社。最前列左から三人目、辻村公一、右隣、木曽好能、最後列左から二人目、伊藤邦武。

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