ELCAS《実践!哲学塾》での質疑応答

2019年度のELCAS《実践!哲学塾》の受講生のみなさんからいただいた質問に、出口康夫先生と講師陣(大西琢朗、伊藤遼、橘英希、澤田和範、山森真衣子、白川晋太郎)がお答えします。(これからも徐々に回答が増えていくかもしれません。)
 

【出口先生の回答】

哲学に目覚めたのはいつ頃?

—— 17歳、高校二年の時です。それまで当たり前だと思い、疑いもしてこなかった、世の中の大人の価値観に違和感を抱くようになったのが、一つの切っ掛けです。初めて、自分を取り巻きつつも、自分とは異なる「社会」というものに目覚め、その中で「自分」はいかに生きるべきかを問い始めたのが、哲学を始める端緒になったと言えるかもしれません。

 

先生の研究のはじめはカントと聞いた。その理由、魅力とかを教えてほしい。先生の書いたものからおすすめがあれば知りたい。

—— カントとは、一言で言えば、それまで神中心だった価値観を、人間中心に変えた哲学者だと言えると思います。その意味で、彼の哲学は、宗教から独立した世俗的な近代社会のバックボーンをなす思想であると言えます。当然、彼の思想の影響力は大きく、現代哲学の様々な流れの中で、現在でも、いろいろな形で議論の対象になっています。私は、最初から自分の思想を作るつもりで哲学を始めたので、過去の哲学者の研究は、あくまで、そのための準備体操のようなものだと思っていました。なので、どうせ胸を借りるのなら横綱の胸を借りようということで、カントを研究対象に選びました。

私は入門書の類いは書いていないので、カントについても専門の論文があるだけです。哲学の専門の論文というのがどういうものか興味がおありなら、その中で、図書館などで入手可能なものを読んでもらえればと思います。岩波の『思想』という雑誌の「カントと代数学」、『理想』という雑誌の「現代科学論カント風」、『哲学研究』の「カントの超越論的観念論について」(これは私の修士論文です)。それから『哲学論叢』という雑誌の「カントとゼーグナー」はインターネットで読めるはずです。

 

ドイツの大学には留学したんですか?フンボルト理念について知ったきっかけなど教えてほしいです。

—— 私の留学先はイギリスで、ドイツではありません。フンボルト理念を作った言語学者ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(ちなみに、彼の弟は地理学者でフンボルト・ペンギン、フンボルト海流などに名を残すアレクサンダー・フォン・フンボルトです)は、哲学者とも交流があり、「フンボルト理念」の原典となったマニフェストも、哲学者のフィヒテとシュライアマッハーが下書きを作成しました。ということで、フンボルト理念には、哲学の勉強をする中で出会ったのですが、その後、教育学者の潮木先生の以下の本を読んで、その理念をめぐる歴史なども知ることができました。(潮木守一『フンボルト理念の終焉』、『京都帝国大学の挑戦』)

 

出口先生があんなに分かり易く正確にすぐに質問に答えられるということについて。どうしたらあんな風に答えられますか。やはり経験値なのでしょうか。

——これは授業中に話したかもしれませんが、哲学のポイントは、足し算ではなく引き算です。錯綜した情報・話の中で、何が重要(ないしは本質的)で、何がそうでないかを見抜き、枝葉末節を切り落として、本質だけを結んで骨太のストーリーを作り上げるのが哲学的思考法の一つのあり方です。これはまた、分かりやすい話をするためのコツでもあります。

またなるべく広い視野を持ち、専門馬鹿にならないということも、哲学のもう一つのポイントです。そのためには哲学者が通常読まないような本、接していないような情報にも目を通すことが重要です。これは他の全ての専門、領域についても言えます。自分のまわりの人が興味を持たないことにも、積極的に興味を持って首を突っ込んでいくことが、専門馬鹿を脱する一つのやり方です。

どの分野に進まれるにせよ、この二つの思考パターンを身につけるようにされたらいいと思います。

 

ミネルヴァ大学の教育法について、どういう考えを持っていますか?(N高について)

——ミネルヴァ大学やN高について詳しいことは知らないので、あまり責任のある意見は言えませんが、教育にしろ、研究にしろ、何にしろ、一般的に言って、新しい試みはどんどんやっていったらいいと思っています。ただ、新しいことをやるということは、それなりに高いリスクを冒すということも意味します。ミネルヴァ大学やN高に行くということは、学生としても、そういったリスクを負うことでもあるということを理解しておくことは重要だと思います。

また、キャンパスを持たずにネットで教育を行うことの長所として、経費が掛からないという点があげられていますが、これはあくまで経営側の話であって、それによって教育を受ける側が得られる教育効果がより上がるという話ではない点は注意すべきです。世界には、立派なキャンパスがあっても無料の大学(ドイツ)やただ同然の大学(メキシコ自治大学の年間学費は1ペソ(110円))はいくらでもあります。つまり、学費の面から見れば、特に、キャンパスを持たない大学に行く理由は、学生側にはないとも言えます。

 

京大はフンボルト理念をいち早く取り入れたことは研究の促進という点で良いと思ったが、研究以外の部分(後進の育成)の部分ではあまり良いとは言えないと思う。今後京大はどのように変わっていくのかが知りたい。

—— フンボルト理念は、少数の極めて優秀な学生にとっては都合がよいが、多くの「普通の」学生を置き去りにする理念だという批判は、19世紀のドイツでも行なわれていました。この批判は、従来の京大の教育方針にも当てはまると思います。今後の京大は、フンボルト理念の良いところは残しつつ、多くの「普通の」学生に対しては、よりシステマチックな教育を施すという、いわば「二刀流」の大学になっていくような気がしています。

 

フンボルト理念が導入されるまでは、すでにあった知識を教えることしか大学は行っていなかったが、それがなぜなのかを知りたい。

—— 社会学における「機能主義」という立場が標榜していることですが、社会には、一般に、その社会のあり方、秩序、価値観を維持、保守していくという機能が備わっていると言われます。逆に言えば、そういった保守機能が働いている社会だけが、一定の社会として生き延びてきたと言えます。大学は社会の公の機関として、このような社会の自己保存機能に奉仕するように作られてきたという経緯があります。その一環として、既存の社会を破壊する危険性のある新しい思想は、むしろこれを封印し、既にある(社会にとって)安全な知識を伝承する機能のみが担わされていた時代があったということだと思います。

では、なぜフンボルト理念が生まれ、世界に広がっていったのか。それは、近代に入り、社会そのものが、知を、そして産業をつねに発展させなければ、他の社会との競争に生き残れない状況が発生したからだと思われます。近代社会は、つねに前向きに「進化」しなければならない宿命を負っているとも言えます。近代社会は、漕ぐのを止めればすぐに倒れてしまう自転車を漕いでいる状況、まさに自転車操業を余儀なくされているのです。その新たな知や産業は、同時にまた、社会を内側から破壊してしまうような危険性をも孕んでいます。このように近代社会には、つねに伝統を守る保守的な傾向と、新たな競争や発展を志向する傾向がせめぎあっているので、それに応じて、大学にも伝統的な知の継承と新たな知の創発の両方の役割が求められているのだと思います。

 

なぜ日本政府は大学を研究ではなく教育の場にしようと考えているのでしょうか?

—— これは主として産業界からの要請です。かつて、労働者は一旦就職した会社を辞めず、年功序列制の中で守られつつ、定年まで働き続けるという「日本型経営」が、広く成り立っていた時代がありました(昭和戦後期)。このような時代では、会社には、時間をかけて、新卒の労働者を、一から、その会社にあった人材に育て上げるというシステムが機能していました。その場合、むしろ大学は「白紙」の人材を提供してくれればよく、後は、自分たちがオンジョッブトレーニングを通じて、好きな人材にテーラーメードしていくというのが企業側のスタンスだったと思います。

しかし「日本型経営」の破綻によって、このような状況は終わりました。社会教育の余裕が無くなった分、企業は、大学に、社員教育を、いわば「外注」するようになったと言えます。逆に言えば、大学には、企業の社員教育の基礎的な部分を「請け負う」ことが求められているのです。

また、上で述べた、自転車操業を余儀なくされている近代社会の競争状況がいよいよ激しくなってきたことも、大学に「教育」が求められている一因となっていると思われます。現代社会は、情報化社会や知識集約社会とも呼ばれています。そこでは、AI、ビックデーター、ロボットに代表される情報産業や、ゲノム編集や再生医療等に関わる医学薬学産業といった知と直結する産業分野が、かつての重工業から主役の座を奪って君臨しています。「知は力なり」という言葉が新たな意味を担って、クローズアップされる社会になったのです。大学には、このような知的産業に即戦力を提供する役割が強く求められており、その結果、「教育」が重視されているのです。

 

「京都学派」の研究者として、自己についての先生の考えを教えてください。

——私は現在、「Self-as-We:<われわれ>としての自己」をキーワードとする自己論についての英語の本、Self and Contradiction を執筆しています。その内容の一端は、すでにインターネットにも出ていますので、それを参考にしてみてください。
http://hotozero.com/feature/kyodaitalk_1/

 

地域によって哲学に違いが出るのは、やはり文化の違いが大きく関係しているのか?どの地域にも当てはまる普遍的な哲学はないか?

——哲学についてはいろいろな考えがありますが、そのうちの一つは、哲学は数学や科学のように普遍的な学だというものです。一方、特定の社会や文化を超えた、普遍的な哲学知などは存在しないという考えもあります。さらに両者の折衷案、哲学には普遍的な要素と文化特殊的な要素の二つの要素があるという立場もあります。

私自身は、哲学者といえども、一定の文化社会的な環境の中で生まれ育った以上、その社会や文化の価値観の影響を受けざるを得ないと考えています。ただ、その価値観を踏まえた哲学を展開するかどうかは、その人の選択にかかっていると思います。

また数学や科学も含め、本当に普遍的な知がありうるかどうかについては、私は懐疑的です。というのも、知は、その知をつかみ取る主体と、知が紡ぎ出される場所の制約をつねに持っていると考えるからです。知の主体に関しては、我々は人類特有のバイアスを逃れることは難しいでしょうし、知が生まれる環境としては、マルチバースという多数の宇宙の中の「この宇宙」の特殊事情に左右されている側面も無視できないかもしれません。我々に出来るのは、自分が持っている「知」の特殊の制約を、一歩、一歩、より少なくしていくだけだ、というのが私の意見です。

 

生活費をかせげるようになるまでにどれくらいかかりましたか?研究者を目指すと、何十年かけても(収入は)ゼロだという話をよく聞く。学派に左右されるものなのだろうか?

——私がフルタイムで就職したのは35歳の時でした。これは、哲学分野の就職年齢としては、当時でも、今でも、平均的な年齢だと思います。

確かに就職状況は分野によっても、またその時代ごとでも違ってくると思いますが、ポストの数よりも志望者の方が多ければ多いほど、競争倍率が上がるという構図は不変でしょう。そして哲学は、幸か不幸か、つねにポスト数よりも志望者数の方が多い、いわば「過剰人気」分野でした。おそらく、この傾向は今後も続くと思われます。

ただし、これからの世代は海外にも目を向けるべきだと思います。今、哲学のみならず、あらゆる分野で、量的にも質的にも最も急速な発展を遂げつつあるのは中国の大学です。そういった状況の中で、中国語をマスターして、日本語も教えられる哲学教師として中国の大学に就職する哲学系の若手研究者も出てきました。今後の世界の人口動態を考えると、皆さんの世代が哲学研究者としての就職適齢期を迎える頃には、今度はインドやインドネシア、さらにはアフリカの大学が発展期を迎えているかもしれません。哲学は、世界のどこでも教えられている学問ですので、次の世代の日本の若手哲学者の中からアジアやアフリカの言語をマスターして、これらの国々に「進出」していく人たちがどんどん出て来て欲しいと思います。私としては、その道筋をつけるためにも、アジアの諸大学との連携を、現在、進めています。

 

大学で哲学を勉強したいと思っているが「哲学を学ぶ=哲学者になる」というイメージしかない。他の選択肢は?
哲学を学んで社会に役立つ大人になりたいが、例えばどういう職につけるのか?哲学の社会への役立つ仕方が気になる。
同じく、哲学を専攻したあと、将来どのような職につけるのか気になった(哲学を活かせる職でも関係ない職でも)。
人文系の研究をするとどうやって食っていくか?
今日[第一回授業]の話をうけて一つの解答は「思想の産物としての提案を社会に対しておこなう」ことだ思ったが、どう思われるか?

——これらの質問にはまとめてお答えしましょう。まず大学卒業時や大学院修士課程(2年間)終了後の就職に関しては、哲学を専攻したことは、特にプラスにもマイナスにもならないというのが近年の一つの確立した傾向だと思います。従って、哲学科を卒業した後の就職先は、基本的には、他の文系分野の一般的な就職先と、それほど大きく違っていないと言えると思います。

これは授業でも話したことかもしれませんが、そのような一般就職先でも、哲学的思考法は、特に企画系の仕事では、間違いなく役立つと思います。時には抽象的な言葉をも交えつつ、分かりやすいロジックを組み立て、職場の内外でプレゼンをして高い評価を得る。これは哲学科出身ではない新聞記者から聞いた話ですが、彼女の職場にも哲学科出身の先輩や同輩がいて、その人たちに対して、彼女は、やはり企画力やプレゼン力が目立って優れているという印象を持っているそうです。

ただ研究となると話は別です。哲学の研究を職業として続けられるのは、現時点では、高等教育機関の教師になるのが、ほぼ唯一の道ということになります。その点、企業での研究職のポストもたくさんある理工系とは事情が異なります。

その場合、重要なのは、研究だけが出来て、人付き合い、対人関係が極端に苦手という人は、教師に向かない、したがって教師としての哲学研究者にも向かないということです。実験室で一人でコツコツ仕事をしておればよい理系研究者と違い、(哲学も含めた)文系研究者は、なによりも、教室で学生に向き合わなければならない教師としての適格性も問われるのです。

また最近は日本でも企業向けの哲学コンサルタントを行なう会社も出来て、それなりに健闘しだしているそうです。なので、将来は、そういった場でも哲学的知を活かせる可能性が出てくるかもしれません。ただし、コンサルタント業でも、基本的には、人との対面の付き合いが大きなウェートを占めることになると思います。やはり、一人でじっと本を読むのは好きだが、人前で喋ること、人と交わることが極端に苦手という人は、職業的哲学者には向いていないのかも知れません。

 

哲学を自分の趣味ではなく仕事として選んだ理由は?哲学のことは好きだがそれを仕事にしようとは今の所思っていないので聞いてみたい。

——まず、これは哲学に限らず、多くの、いわゆる専門職(専門的知識が求められる一方、給与体系や勤務形態が他の一般職と異なる職業)に言えることだと思いますが、人が、何かを職業として(ないしは職業に)選ぶというよりも、実は、多分に、その人がその職業に選ばれるという側面が大きいと思います。というのも、専門職の場合、ある職業につけるかどうか(つくかどうか)は、専門家による何段階もの審査が入るのが普通だからです。哲学の場合でも、大学院修士課程進学時、博士課程進学時、博士論文の審査時、様々な学会発表での発表や論文、著書の出版時、そして就職に際しても、上の年代で既にその職についている専門家たちの審査を受けることになります。こういったシステムの中で、私自身もそうですが、単に好きで研究をしていくうちに、気がついたら専門家になっていたというのが実感だ、という人も多いと思います。これは例えば音楽家でもそうだと思います。オーディション、アルバムの制作、デビューと、いろんな段階で、「業界」の「目利き」に選ばれて初めて、プロになれるのです。つまり別の言い方をすると、下手に小細工を弄しても、それだけではプロにはなれないということです。では、自分で自分自身の将来を左右できないとしたら、どうしたらいいのか。一つには、当たり前のことですが、その都度目の前にある課題に、本当に手を抜かず、全力で取り組むしかありません。では、どうすれば全力を出し切れるのか。最終的には、目の前の課題をより完全なものに仕上げたいという、自分の内発的な「こだわり」しかないと思います。逆に言えば、自分が生み出す作品の品質にしつこいまでの「こだわり」を持てるかどうかが、単なる趣味としての取り組みとプロの仕事を分けるポイントなのかもしれません。しかし「人が職業を選ぶのではなく、職業が人を選ぶ」以上、自分なりに徹底的に作品の質にこだわったとしても、自分の作品が、既にプロである人たち選んでもらえない可能性はつねにあります。その場合は、なにも悪びれることも卑下することも無く、堂々と、別の道に進めばいいと思います。私も(通常は二年の)修士課程を三年やって、カント哲学を根本的に批判する思い切った修士論文を提出した際には、これだけ好きなことを書いたのだから、もしこれがダメだったら、一年間、聴講生として大学においてもらって、翌年はNHKにでも就職しようと、さばさばした気分だったことを覚えています。(ちなみに、当時の私はNHKが就職先として、どれほど難関かよく理解せずに、安閑とそのように考えていたのですが、その数十年後、私の息子が、京大の思想系の修士課程を終えて、NHKに就職することで、親子二代の「夢」を叶えることになりました。)

 

嫌なものから逃げてよいという言葉に勇気づけられたが、本当に嫌なことと嫌なことの区別はどうやってつけたらよいのか。ひたすら自堕落にならないように、どこでセーブをかけるべきか。

——本当に嫌かどうかの区別は、最終的には、自分の心に聞いてみないと分かりません。そもそも「嫌」というのは一種の感情的な反応なので、他者は、それを直接、見極めることができないのです。とはいえ、もちろん、自分の感情も含め、自分のことは自分が全て知っているという言えるわけでもありません。自分は本当に何が好きで、何が嫌いなのかも、案外、自分では分からないことも多いのです。ある事柄が嫌いだと思っていたけど、実は、それは何か別の事柄に対する嫌悪感や、単なる怠け心の転化にすぎなかった、ということもありうる話です。とはいえ、本当に何が嫌いかは、結局、自分で慎重に吟味した上で、最後は自分で判断せざるを得ない事柄です。

そのような慎重な吟味を経て、やはり自分はある事柄が嫌いだと結論づけざるを得なくなったら、勇気を以て、「嫌いなものは嫌い」とはっきり言って、それにあわせて行動をすれば思います。例えば、理系科目が嫌いなら、文系の大学に進学したらいいのだし、そもそも高校で習う科目自体が全部嫌いだということなれば、大学進学以外の進路先を探せばいいのです。ただ何かを選ぶために重要になるのは、「嫌い」という感情より「好き」という感覚です。その意味で、「自分は本当に何が好きなのか」は、一生をかけて追求するに足る、重要な問題だと思います。本当に好きなものがまだ見つからない場合、自分にとって、「他よりまし、まだ我慢できる」と言える進路をとりあえず選んで、その後、自分の「好き感覚」を研ぎすませつつ、本当に好きなことは何かを探し続ければよいのです。もちろん、好きなことを一生探したとしても、最後にそれが見つかる保証はどこにもありません。自分にとって「本当に好きなこと」は、結局、この世には存在しない「青い鳥」だったということも、十分ありうる話です。でも、もし本当にそうだとしたら、それはそれで受入れなければならない事態だと思います。「この世界に私が本当に好きなことは結局一つも無かった」という結論に達した人生は、好きなことを見つけ、それを十分に成し遂げた人生に比べた場合、悲劇的ではありますが、突き詰めるべきことを最後まで突き詰めたという点では、後者とくらべても何の遜色もない立派な人生だと言えると思います。

 

文学部は就職率が低いと聞いたことがありますが、本当ですか?

—— 既に上で答えたことと関連しますが、京大のケースを見る限り、文学部だから他学部に比べ就職が不利だというのは、一般的にはないと思います。私が見てきた限りでは、就職に際しては、どこの学部や学科、専修に所属しているかどうかよりも、個人の「対人関係力」が鍵を握っているように思えます。ここで言う「対人関係力」とは、例えば、「ちゃんと相手の目を見て、笑顔で、しっかりとした、かつ落ち着いた口調で話ができる」とか、「相手の問いかけに対して、ネガティブな仕方のみで切り返すのではなく、相手の言うことを肯定的に受け止めつつも、しかし、言いたいことはきっちり言う」といった態度のことを言います。

 

先生の話を承けて自分の論文を見直してみると悪い例にあてはまっているように感じた。どのような点を評価してもらったのだろうか。

—— 最初に提出された論文は、講義で「論文の書き方」を教わる前に書かれたものですから、論文にとって重要な形式や構造の面で問題があるのは、ある意味当然です。逆に、構造面がしっかりしている論文ばかりが揃ってしまえば―それはそれで、いいことですか―講義をする意味は減じてしまいます。このような意味でも、論文の評価に当たっては、たとえ構造面に問題があったとしても、なにか原石としてキラリと光るものがあれば―例えば―内容面とか文章の善し悪しとか―採用するようにしました。あなたの論文にも、どこかキラリと光る原石があったのだと思います。

 

幸福とはなんぞやで詰まっている。アドバイスがあればうれしい。

——幸福 (Happiness) に関しては、古来より哲学で様々な議論蓄積があり、現在では、心理学で盛んに研究され、いろいろな定義が提案されています。

また近年は、幸福と重なりつつも微妙に異なる概念として Well-being ウェルビーイング(精神面・人間関係・社会的な関係等も含めた全人格的な健康)なるものも提案されています。

ネット上で見られる、日本的 Well-being を考える面白い試みの記録としては以下があります。
http://boundbaw.com/world-topics/articles/61

ただ、従来の幸福論、ウェルビーイング論は、基本的に、幸福やウェルビーイングを、一定の時間における身体や心の状態として、いわば無時間的に捉えるというアプローチが主流でした。それに対して、特に日本的ないし東洋的な幸福・ウェルビーイングを考える際には、「理想的な人生の送り方」(ないしはそのモデル)といった、その中に時間的発展を取り込んだ概念が必要ではないか、と私としては考えています。

例えば、人口に膾炙している、「子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」という『論語』における孔子の言葉や、スイスの精神分析家ユングが『原型論』で語っている「理想の人生の送り方を表した原型」などが、新たな人生モデルを構築する際の参考(むしろ叩き台)になるのではないかと思っています。

 

善チームだが感情が気になってきた。両者の関係について考えのとっかかりが知りたい。

—— 善と感情に関しては、善から感情を排除するもの、一部とりこむもの、全面的に取り込むもの、など、さまざまな立場があります。感情に敵対的な立場としては、「善とは何か」は、感情を排した、純粋に知的な認識によってしか捉えられないとしたプラトンが有名です。簡単に言えば、感情に左右されることで、人間の善悪の判断は鈍るというと見なすことで、感情をメガティブに捉える立場です。一方、そもそもある種の感情を持つことが善なのだと主張する立場、善を感情によって定義する立場もあります。例えば、快(Pleasure)や苦(pain)も感情の一種だと見なせば、善とはある種の快楽を得ることだと立場—これは一般に快楽主義(ヘドニズム)と呼ばれる立場ですが−がこの仲間に入ります。知的快楽を重要視する功利主義も、また、大きく見れば、快楽主義の一種です。さらには、相手の苦しみを自分の苦しみとして感じて、それに同情する「共感・共苦(compassion)」という感情を、善の根本だと捉えたヒュームの立場もあります。またカントは、善を感情から切り離して、「人を道具としてではなく、目的として扱うこと」と定義する一方、我々が善を実行するためには、この定義に対する尊敬感情が必要だと論じました。このようなカントの立場は、善の議論の中に感情を一部取り込んだものだと言えます。

(出口先生の回答終わり。これ以降は他の講師が答えます。)

 

【論文や文章の書き方に関して】

キー概念の導入にあたって、辞書の定義を引くこと、具体例を用いること以外に、どのような方法があるか?

——自分で定義するのが普通です。定義にも色々ありますが、「必要十分条件」を与えるのが理想的。その上で具体例を挙げるとわかりやすくなります。そもそも既存の概念では満足できないときに哲学を必要とすることが多いので、辞書を引いても意味がないことはしばしばです。(白川)

——私は非本質主義者なので(出口先生が最後にお話された「問題とは何か」を覚えているでしょうか?)、論理学なんかをやっているような特殊な場合を除いて、厳密な必要十分条件を与えることは目指しません。概念の導入のときには、その議論に必要十分な特徴づけを目標とします。具体例は当てはまる例とともに、微妙に当てはまらない例をあげるのもよいと思います。(澤田)

 

文の語尾に変化をつけるにあたって、具体的にはどのようにすればいいか?

——とりあえず論文の書き方についての参考書を見たら良いと思います。あとは普段から言い回しのストックをためておくことは大事ですね。どうしても困ったときは、言いたいことを英語に訳してからバック・トランスレーションをかけて日本語に戻すという方法をとることがあります。そうすると、言い回しが自然に変わるので。(澤田)

——たくさんの文章を読んで書き方を習得していくしかないですよね。段々と「あ,この人の文章は分かりやすいな」とか「美しいな」という自分の好みが分かってきます。その時自分がその人の文章のどういう点が分かりやすく美しいと思ったのか,考えるようにすればいいと思います。(橘)

——論文は「である」という語尾が基本である。しかし同じ表現が二回、三回と続くと読者はイライラするものである。だから「だ」とか「ほかならない」など、繰り返しがないように書き手は工夫しているのである。「なのだ」を多用する人もいるが、バカボンのパパっぽくて、内容がまったく頭に入ってこないのである。そのため、強調すべきところ以外では、むやみに「だ」「である」という表現を使わないのが重要なのである。(白川)

 

自分の意見を人に理解してもらえなかった時、自分に問題があるのか、相手に問題があるのか。後者だとしたらどうしたら良いのか。

——相手がどういう人であるのかにも依りますが,哲学の議論をしている時は基本的に相手は理性的な人間だと想定するので,自分の提示の仕方が悪かったと思うのがよいのでは。相手が悪いというよりも自分が上手にプレゼンする能力がなかったと考え,自分の修行の糧とすると。まあこれは理想論で,普通はこんな殊勝な考えはもてず,キーッとなりますが。(橘)

——相手の知的レベルに合わせて、話や議論の抽象化のレベル、スピード、繰り返しの回数、具体例の数を変化させる。こうした作業はなかなか面倒なのだが、自分の考えを色々な角度で捉えることで理解は深まっていく。どんなアイデアでも説明の仕方を工夫すれば相手は理解してくれるというのも事実であるから、「相手に問題がある」と思っていても、実は「自分に問題がある」という場合が多い。(白川)

 

比喩と具体例の違いについて詳しく知りたいと思った。

——具体例は、抽象的な主張を分かりやすく説明するために提示するか、あるいは、主張の具体的証拠として提示するものです。比喩は、まず主張の証拠にはなりません。もっぱら説明のために使います。比喩を使う際に注意するべきことは、説明したいこととどこが似ているのか、そしてどこが違うのかを、同時に説明してあげることです。たとえば「ジュリエットは僕の太陽だ」は比喩ですが、ジュリエットはあんなに大きくありませんし、丸くもない。では、どこが太陽と似ているのでしょう? 詳しい話はダニエル・デネット『思考の技法―直観ポンプと77の思考術』(青土社, 2015)を読んでみてください。漬物石みたいな本ですが、語り口は軽いです。(澤田)

 

比喩とはどういうものだろうか。村上春樹の論文(?書き物くらいか)はよい論文と言えるのか。「ひきだしの中に咳止めとのど飴を一緒に入れたようなにおい」という比喩があったが。

——他の回答者が言う通り,哲学論文で言う比喩とは説明です。その意味ではこの村上の比喩は良いものとは言えないのでは?文脈が分かりませんが,何かを説明する類の比喩ではない気がする。もちろん別の意味では良い比喩だと言えるかもしれません。(橘)

——比喩と哲学の関係は非常に深いです。すばらしい比喩によってものの見方が分かりやすく魅力的になったりします。たとえば、信念の蜘蛛の巣 (the web of belief) という表現は、我々のいくつもの信念が相互に支え合って大きなネットワークを作っていることを表すうまい比喩です。逆に、あまりに我々に根付きすぎて、もはや比喩だと分からなくなってしまったものを突き止めて、その比喩から生じうる間違いを正すのも哲学の仕事のひとつです。「街の喧騒はもはや二人の意識には届かなかった」——ここでは「意識」を何か脳内にある箱であるかのように比喩的に表現していますが、おそらく意識は本当はそんなものではありません。(澤田)

 

思考を進めるときに理詰めになりすぎて極論に走ってしまうことが多い。どうすれば軌道にのせられるか?

——まず,理詰めになることは哲学の世界ではよいことなので,過剰は悪徳にはならないと思います。その上で気をつけるべきは,理詰めになっていると自分では思っていても,実のところ思考のジャンプが起きているという可能性があること。自分が間違っている可能性について思い至れないことは哲学では悪徳でしょう。(橘)

——哲学なので理詰めで極論に走ることはむしろ普通だと思いますよ。(白川)

 

文学作品は悪い文章か?(文学作品は出版された時点で筆者の手を離れ、様々な解釈をされるようになる。作者の言いたいことが明確とは言えない。)

——これは面白い論点で、「出版された時点で筆者の手を離れ、様々な解釈をされるようになる」のは、哲学の文章であっても必ずそうなる運命にあります。「作者の言いたいことが明瞭とは言えない」というのも、偉大な哲学の文章にはそういうものが多く、だから解釈論争が引き起こされて、「偉大な哲学」として残り続けるというところがありますね。文学について言えば、松浦寿輝が『青天有月 エセー』(講談社文芸文庫, 2014)のなかの一篇で、意味を削ぎ落とした紙飛行機のような言葉がほしいという趣旨のことを言っていたのをよく覚えています。彼は「作者の言いたいこと」をできるだけ持たないような言葉が、作者の手から離れて美しくどこまでも飛翔してゆくことに、自分の詩の理想的なあり方を見ようとしているわけです。(澤田)

——哲学には文学的なものも多い。プラトンの対話篇はセンスのよいセリフに満ちた小説として読めるし、ニーチェやウィトゲンシュタインもかっこいいアフォリズムで構成されている。ただ若いうちにそうした作風に憧れてまねしてみても、誰にも読まれなくなるのがオチなので、まずはわかりやすく丁寧な文章を書けるようになろう。(白川)

 

良い文章はどこを探せば見つかるか?

——ジャンルを問わずある程度評価が定まっている古典を読みまくるしかない。自分の好きな書き手がわかってくると、共通した何かに気づく(思考のリズム、推論の流れ、文体 etc.)。ドキュメンタリー番組のナレーションなどもよく聞いてみると、ムダがなく簡潔に要点を伝えていて勉強になる。「悪い文章」を反面教師にするのも有効。(白川)

 

議論と喧嘩の明確な境目はあるか?

—— 相手を最初からバカだと思う議論はありえませんし、相手の議論によって説得される気がないものは議論とは呼べないと思います。ネットで行われている「議論」の多くはただの喧嘩です。(澤田)

——ケンカは相手を打ち負かそうとするのが目的ですが、議論は打ち負かすことが目的ではありません(結果としてそういう現象が起きることもありますが)。議論の目的はよりよいアイデアをこの世に存在させることで、一緒に議論してくれる人は(敵ではなく)大切な仲間なのであります。(白川)

 

自分の議論に行き詰まった時(他人などにたくさん指摘された後)の解決策は何か?思い切って違うものに乗り換えてしまうべきか、突き詰めてみるべきか?

——ある程度(1年とか2年とか)は突き詰めてみて、どうも上手くいかなければ、スパッと頭を切り替えて、別のアイデアを検討する。このバランスが大事ですなー。ある程度の執着心やしつこさがないとオリジナリティのあるものは生まれないが、度が過ぎて頑固だと行き詰まったときに停滞する。このあたりのバランスは哲学に限らずどのような分野の研究でも重要だと言われますよね。(白川)

 

自分の論の「穴」を見つけるために必要な視点にはどのようなものがあるか?(自分の中で論が完成していると思っているので、読み返しても穴に気付けない)

——まずは自分の視点がどういうものであるかを自分で明確化する。これが中々難しいですが,これが出来たら自分の視点に対立する視点をもってくることはそれほど難しい作業ではないはず。(橘)

——何日か寝かせてあらためて読み返すと「他人」の文章として読めるので穴は見つかりやすいです。でもそれもなかなか難しいので、普通は「本物の他人」に検討してもらう。(白川)

 

前提を突き詰めすぎると収拾がつかなくなりそうだが、どうすべきか?

——収拾がつかない議論の方が面白いように思います。収拾をつけるために無難なことを言い始めるとつまらないのでは?(白川)

——同じような、あるいは関連した趣旨の質問が多くありました。どういう定義をすればよいか、何を前提できるか、悩ましい問題ですが、答えは「誰が読者かによる」です。誰にでも通じる定義や前提などはありません。すべては誰に向かって書く(話す)のかに依存します。ということで、それを誰が読む(聞く)のか、どのような知識や考え方をもっている人なのかを徹底して考える、あるいは調べることから始めるしかありません。これはわりとたいへんです。個人的には、プレゼンテーションを作ったり論文を書いたりするときにいちばん時間をかけるのは、実はここです。他方、確かにたいへんなんですが、逆に言えば、ある程度は気を楽にもって大丈夫です。森羅万象すべての知的生命を相手にする必要はないのです。

わかりやすい例として、私たち研究者が書く学術論文の場合を考えましょう。この場合、読者は、同じように論文を書いている専門家たちです。まずはそうした専門家たちが書いた論文を山ほど読んで、その分野(=自分の論文の読者)では、どのような問題が興味深い問題と認められているのか、どのような概念は周知のものと認められているか、どのような前提なら論証なしに認められるか、等々の「相場観」を養います。自分の論文は、そうした相場観に基づいて問題を立て、概念を導入し、議論のための前提をおくことになります。(みなさんの今回の論文執筆プロセスは、じつはここをやっていないので大変だったんだと思います。)

ひとつ付け加えておくと、これはたんなる下調べみたいなものではなく、じつは論文というものの核心にかかわることでもあります。なぜかというと、論文というのはこれまでになかった新しい主張を打ち立てるものですが、そのような新しい主張は、これまで専門家の間で当たり前と思われてきた問題、誰もがわかっていると思っていた概念、誰もが当然視してきた前提に疑問を投げかけることで生まれるからです。

つまり、論文を書くというのは、想定される読者の間で何が共有されているかを正確に突き止めた上で、それらのうちのいくつかを採用して議論の足場としつつ、同時にそれらのうちのいくつかを批判することで独自性を打ち出す、という作業です。これはたいへんなんですが、同時に、まったく雲をつかむような話でもありません。地道にやってれば何とかなります。(大西)

 

自分の論理が混乱してきたときは図などに書き表したほうが良いのだろうか?また、数日、ひとまず置いておいても構わないのだろうか?

——図などに頼って視覚化するのは非常に大事な作業です。図でもって自分の議論をシンプルに表せることができないということは,そもそも自分の議論がどういうものか分かっていないことの証拠になる,それぐらい大事です。(橘)

——図でも文章でもとにかく目に見える形で脳みそから取り出すのは有効ですね。数日寝かせるというのもとても有効ですね。(白川)

——人に説明しようとすると、謎のパワーが自分のなかから出てきて解決することがあります。(澤田)

 

ロジックを組み立てようとすると、ワンステップごとに「それが100%正しい!」とは言えず懐疑的になってしまい、一歩も話が進まなくなりそうだが、どう対応すべきか?

——悩ましいですよね。100%正しい議論が出来上がることは本当に稀なので,これは期待しないようにする。そのうえで,どのステップに誤りが潜んでいる可能性があるのかを誠実に明示化しながら議論するのがよいでしょう。(橘)

——説得力がある議論とは、「100%正しい!」と思えるステップの積み重ねです。すでに自分が懐疑的になっているのなら、そのステップはおかしいということなので変更すべし。自分の批判的吟味力を褒めましょう。(白川)

 

論拠の初めがどうしても仮定から始まってしまいがちだが、どうすればよいか?

——皆がだいたい認めるような仮定なら問題ないです。(白川)

 

相手の議論によくわからない部分はたくさんあるが、そのわからない部分を言語化するのが難しい。何がわからないかがわかっていないのだろうが、まだまだ自分の思考が浅いということだろうか?

——基本的には議論というのは個々の主張とそれら主張のあいだにある関係の二つから成ります。自分がそのどちらのレベルで分かっていないのかを意識する。個々の主張内容が意味不明だということであれば「もっと明確にして」とか「ちゃんとした日本語で表現して」とかと相手に質問すればよい.関係が分からないときはある主張から別の主張への推論の根拠が分からないということだろうから,それを問えばよい。(橘)

——わからなさの理由をはっきりと明示化することはかなりの力量が必要なので、悲観しなくてよいでしょう。相当の年季が入らないとそこらへんは上手くならない。(白川)

——「具体例を出して」とお願いしたらよいと思います。(澤田)

 

一義的な言葉、説明のいらない言葉、わかりやすい言葉は、どこまでつきつめれば良いのでしょうか。

——誰に聞いてほしい話なのかによって、「説明のいらなさ」や「わかりやすさ」は変わってきます。相手のことをよく知りましょう。(澤田)

 

論文を書く上で、「言葉を定義する必要がある場合」と「定義しなくてもよい場合」が区別できません。

——辞書に載っていない言葉や、辞書とは違う意味で使おうとする言葉は、自分で定義する必要があります。(白川)

 

自分の主張を昔の人がすでに証明してしまっている、ということはよくあるのでしょうか。また、その場合どうするべきでしょうか。

——研究をしていると、基本的にそういうことばっかりです。業績にはならず残念に思うこともありますね。しかし、昔の人や立場の違う人が違うルートで同じ結論に到達しているという事実は、自分のその主張が正しいという蓋然性(確率)を高めるものだと理解できるので、素直に嬉しくなったりもします。(澤田)

——われわれが考えていることはだいたい昔の人も考えているので、そういう人が見つかった場合は、先人が人生を賭けて与えた考えを参照する方が効率的でしょう。もちろん証明が成功しているとは限らないですが。(白川)

 

客観的な視点を考えようと思ったとき、主観的に客観的を推測してしまって、カンペキな客観的はとても難しいと思うのですが、そもそもそれは可能でしょうか?

——哲学の大問題なので簡単には答えられない。完璧な客観性とは、神の視点からのものか、いわば誰の目からでもない無視点的な観点から主張されることだと思いますが、そのような内容に人間が到達できるか謎です。だから大多数が正しいと判断するものを客観的なものとして満足するしかないのでは?(白川)
←関連する文献にネーゲル『どこでもないところからの眺め』がある。(澤田)

——客観性とは何かというのは難しいですね。私もよく分かっていません。完璧とは行かないまでも、できるかぎりの客観性を確保しようとして進歩してきた人間の活動の一種があります。何だか分かりますか? 科学です。それがどのような意味で客観性を目指しているのか、ちょっと考えてみるのがよいかもしれません。科学哲学の重要なテーマのひとつが科学の方法論です。たとえば、物理学においては不変性 (invariance) が客観性の代表的な指標ですし、心理学や薬学においては二重盲検法が必須です。(澤田)

 

前提はどこまで規定するのが妥当なのか。(一般に認められている、一般常識。説明されている、絶体的にありえない、ありえないが、理論上存在しうる、辞書、聖書)

——一つの目安としては「議論の前提のうち、相手(議論を読む/聞く人)が受け入れるかどうかわからないようなものは明示する」と良いかもしれません。例えば、善とは何かについて論じるときに、「世界が存在する」という前提を受け入れない人はいないと思いますので、その前提を規定する必要はないと思います。逆に、自分の議論が「善は計量可能である」という前提を必要とするならば、それは明示する必要があると思います。善とは何かを論じる人がこの前提を受け入れてくれるか否か明らかではないと思うからです。(伊藤)

 

論文でどこまでを断言し、推量すればよいか教えてください。(「〜である」と「〜だと思われる」の使い分け?)

——むしろ、主張の種類と必要な証拠との関係をよく考えてください。「Aである」、「Aは必然的である」、「Aかもしれない」、「Aであるべきだ」などなど、どれも必要な証拠が異なります。伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(ちくま新書, 2005)が参考になるでしょう。(澤田)

 

自分で論文を書くと、どの表現や内容に対して理由を突き詰めればよいか分からなくなります。

—— 読み手が誤解しそうな表現や読み手が理解・納得してくれなさそうな内容ほど、表現の意味や主張内容の根拠を吟味する必要があると思います。どのような表現や内容が読み手に伝わりづらいかは経験を積めば自分でわかるようになってきます。ELCASでまさにやったように、自分が書いたものを同じ興味を持つ人に読んでもらったり、また逆に、他人が書いたものに(建設的な)コメントをつけてみたりすると良いと思います。(伊藤)

 

論拠や主張を整理した上で論文を書いてもどこかで矛盾が生じてしまうのですが、どうしたらいいでしょうか?

——矛盾をなくすように頑張るしかない。矛盾している二つの内容のどちらを捨てるか、一見すると矛盾だが実は矛盾ではないのだ!と論じるなど。(白川)

 

自分がじっくり考えていることをまとめるのがとても苦手です。あまり考えたことのないことについては片付けやすいのですぐにまとまるのですが、常に考えていることは話を掘り下げすぎてどこから手をつけていいのか見当もつきません。なにかポイントやコツなどありますか?

——やはり文章に書いてみるしかないなー。ぼんやりストーリーが見えたら原稿を書き始めて、文章を書きながらどんどん議論が形になっていくものです。(白川)

——人に話してみるのがよいかなと思います。たとえば友人に、どういう問題をどこまで考えてみたのかを5分くらいで話してみる、とかをやってみるのはどうでしょう。わたしの経験上、話しているうちに、自分が必ずしも意識していなかったような仕方で、話がまとまってくるもんです。(大西)

 

主張は、何から思いつくものなのでしょうか。

——いろいろ勉強したあと、趣味でランニングしているときに思いつくことが多いです。(澤田)

——新しい発想は、机に向かってウンウンうなっていてもなかなかでてきません。お風呂に入ったり、自転車に乗っているときのような、意識が一点に集中しておらず、ちょっと散漫になっているときの方が出てくるものです。(白川)

——他の人も書いているとおり、運動中やお風呂のときなどに思いつくことが多いです。もちろんそれまでには、考えるための材料を頭に入れたり、机の前などでしばらくウンウン唸ったりする時間も必要です。そこまでやっておくと、場合によっては夢の中でまで考えていて、そこで解決が「降りて」くることもあります。(大西)

 

論理を組み立てるとき、重要なことや意識すべきことがあれば教えてください。

——一つ一つの推論のステップにギャップがないかどうか。(白川)

 

もし「このようなことが主張したいがどういった論をつくればよいかわからない」というようになってしまった場合、どうすればよいでしょうか。

——そこが一番難しいところで哲学者の腕の見せ所であります。簡単にできるようなテクニックはないのですが、過去の哲学者が編み出したいくつかの議論のパターンを知っておくのは有用です。(白川)

 

自作の論文を誰かに読んでもらって意見を求めたいとき、どのような手段がありますか。

——趣味の合う知り合いを作りましょう。(白川)

 

論文を書いていると、自分はどうであるか、他人はどうであるか、など色々考えざるをえなくなりますが、そこで、かたよった主観に陥ることがあります。客観的なことを述べようとしているのに主観に落ちていく状況をどうすべきなのでしょうか。

——それが主観的なものだというだけで悪いとは言えない。主観的なものでも大部分の人が認めるものならば、ある種の客観性は確保される。「ストロベリーケーキはおいしい」という主張は主観的だが、だいたいの人が認めるので、たんなる主観的な主張とはちょっと違いますよね。(白川)

 

論文を書く際、(1)何から着想を得ているか、(2)着想からどのように論文にしていっているか を知りたいです。

——着想は日常で哲学とは関係ないことをしていると、どこからか降ってくる。そうした着想はすぐに忘れがちなのでメモに残しておきましょう。着想を論文にするときには、論理的な議論の体系にしなければならないので、机に向かって集中しなければならなりません。つまり、あまり緊張していないときに着想が得られ、それを論文にするときには緊張を要します。(白川)

 

【哲学に関して】

私も科学が「正しい」ものかどうか考えることがある。それは一つの思想体系である。ある枠組みを設定して、そのなかで証明されたもの以上ではない。こう考えて私は現在一種の科学不信に陥っていて。学校で習う理科の勉強にも身が入らない。私は一体どうすればよいか?

——理科は「ある枠組みの中で証明されたもの以上ではない」ということだが、理科でそうなら、他の科目はもっと身が入らなくなっているのでしょうか?理科で設定されている「枠組み」はかなり汎用性が高いと思われる。逆にどの科目には身が入っているのか気になるところであります。(白川)

 

哲学における「正しさ」の基準が気になった。自分とは違う意見があるとき、それを前提としたときに何か不都合があることを相手に説明するのか。

——実は哲学的な対立はそのようなレベルの議論では納得されないことが多いです。性格の違い、生き方の違い、根本的な価値観の違いなど。そういうレベルの対立が明らかになったときには、円満にお別れするか、(議論ではなく)「宣伝」のような生理的なところに訴えるしかなさそう。(白川)

 

歴史や人の思想を学ぶことの意義をどのように考えているか?

——われわれが考えるようなことは昔の人も同じように考えているものなので、同じことを繰り返さないためにもまずは学んだ方が効率がよい。ただ、過去から学ぶだけでは進歩は生じないので、ある程度学んだら自分で考える必要もある。(白川)

——面白いので、全人類が忘れてしまうのはもったいない。(澤田)

 

「人権」や「法律」に疑問がある。これらは「それにしたがうとやりやすいから」という理由で強制されている気がする。なぜ「行政サービスはいらないから、その代わりに自分を日本の法律で縛らないでほしい」と主張できないのか?国家という組織に参加しない自由があってもよい のではないか?

——本当にそうですよねー。頼んでもないのに生まれたとたんに社会の一員にされ、勝手に人権を認められ、義務も課せられましたよねー。本来は社会契約的に自分の意志で組織や国家の一員になるのが筋というものなのに、理不尽に強制されている感じがしますよねー。ほんと「国家という組織に参加しない自由」もあるように思いますが、なかなか実現される気配はありません。どうしてでしょうか? 赤ん坊や幼児にはその選択を迫ることは難しいし、もしそうした自由を享受できた場合は往々にして死が待っているからでしょう。なぜ世間一般の子供たちはこうした点に疑問をもたず素直に社会的な規範に従えるようなっているんだろーとずっと思っていました。もしかして隠しているだけで疑問に思っているひとは多いのでしょうか?(白川)

 

「人生の豊かさ」とは何だと思いますか?自分の人生は豊かだと思いますか?人生を豊かにするには何をすれば良いと思いますか?勉強?

——やっぱ愛,エロースとフィリアの二つがありますよね。(橘)

 

哲学は理想を重点にするか、現実を重点にするのか。どちらが優先ですか?

——昔からその対立があり、たとえばプラトンは理想主義的で、その弟子のアリストテレスは現実主義という対比で理解されていますね。このあたりはどちらが正しいかというよりも、本人の好みや気質に関わっているのでしょう。現実に不満があって変えていきたいから哲学をやっている人と、現実をありのままに理解したいから哲学をやっている人の違い。(白川)

 

自分が中学生であったころと比べて批判的なものの見方があまりできなくなっているように感じます。これは知識が増え、多角的なものの見方ができるようになったからというのもあるかもしれませんが、自分が社会に対して諦めの念を抱きはじめたこともあると思います。どうすればいいですか。

——順調に「社会化」され「大人」になっていることの証左なので喜ぶべきことではないでしょうか。思春期を過ぎればナチュラルに批判的観点をもつことは難しいので、必要と思うのなら、意識的にやっていくしかないですね。(白川)

 

今後の生活で、私は哲学以外の道に進もうと思うのですが、自分の考えをつきつめて文章化して他の人に納得してもらいたいという哲学欲を満たすにはどういった手段があると思いますか?

——世間には「哲学カフェ」という、まさにそういった人向けの活動があります。最近はけっこう流行っているそうです。(白川)

——これから学問の形はどんどん多様化していきます。大学教授だけが哲学をやる時代ではありません。たとえば、こんな本が、あなたのこれからの知的生活の導きの糸になるかもしれません。https://www.akashi.co.jp/book/b472224.html (大西)

 

善とは自分から発した行為が他者に共鳴、共感を与えているのと同時に自分自身にも波及するエネルギーであると考えました。物理学でいうところの「エネルギー」を有するものだとすれば善は数値化できるのかを知りたいです。数値化できるとしたら私たちの政治的、経済的、社会的な問題を改善することにつながりますか。

——善の数値化というのに似たアイデアは、最近だと鈴木健『なめらかな社会とその敵』(勁草書房, 2013)で展開されています。直観的なアイデアを実際に使えるところまで持っていくには、どうするのかということを学べると思います。しかし、その数値の割り振りの基準はいったい誰が設定するのでしょうか。差別をその数値が正当化してしまわないでしょうか――「おまえに対する不平等な扱いは、おまえが善くない人間であるという客観的な事実に基づく正当なものなのだ」。善の数値化は近代社会を支える平等という理念を破壊する危険性があるかもしれません。「善とは自分から発した行為が他者に共鳴、共感を与えているのと同時に自分自身にも波及するエネルギーである」という考え方は、むしろ(私も詳しくないのですが)古代ギリシアの「ミメーシス」という概念からアプローチしてみるのが面白そうだなあと思っています。(澤田)

 

【先生や哲学者に関する質問】

高校生のとき何冊くらい本を読んだか?どれくらいの時間を費やしたか?

——高校生のときを振り返ると読書なんてほとんどしなかったなあ。中学生のときは推理小説が好きで赤川次郎とかを読みまくってた。中高までの読書歴はそんな程度です。(橘)

——高校生のときは京極夏彦の百鬼夜行シリーズに嵌ってました。(澤田)

——高校生のときは日本文学全集ばかり読んでいました。哲学書に関心はなかったです。(白川)

 

 

哲学に目覚めたものはいつ頃?

——小学生のときに「なぜか男子が全員怒られる」みたいなのが嫌だったのが始まりですね。(澤田)

——私は「社会への違和感」から哲学をしているのですが、これは保育園の遠足で自分だけみんなと違う公園に行ったときに感じはじめ、中学二年生で登校拒否をした際に明確に意識し、会社を5日で辞めて確信にかわったのであります。(白川)

 

哲学を専門とする人は文章を読むのが得意か?私は現代文がかなり苦手。

——書くだけではなく読む能力はとても大事です。いろんな人の議論を理解できるようになって初めて自分の議論が作れるようになると思います。しかし現代文が出来るかどうかはまた別の問題。(橘)

——現代文はさておき、大学に入ったらぜひ、専門書を1行1行読むような「講読」の授業に出てみてください。「読む」「読める」というのはどういうことなのかがよく分かると思います。(大西)

 

哲学者の最盛期は遅いのか?

——僕はひよっこなので分からないですが,先生なんかは50代になると新しいことが次々と浮かんで止まらなくなると言ってました。(橘)

 

哲学者は日々抽象的なことを考えて頭がおかしくならないか?

——個人的には若干ノイローゼ気味になってはじめて論文が書けるので、頭がおかしくなりそうな自覚が出てきたら「あとちょっとだ」とうれしくなる。(白川)

——周りを観察しているかぎりでは、みなさんあまりおかしくなってませんね。抽象的で難しい問題を完全解決するという遠いゴールだけを見ていたら、頭もおかしくなるかもしれませんが、プロの哲学者はみな、その解決に向かって一歩一歩できることからやっていくという姿勢に見えます。その意味でとても健全です。逆にいうと、そうやって着実に考え続けることのできる姿勢やスキルを身につけた人でないと、プロの哲学者にはなれないかもしれません。(大西)

 

哲学に精通している方々と何かについて議論をするとき、先生は議論、強いほうですか、弱いほうですか?

——圧倒的な貧困とか大災害の前に議論が無力だという感じることがありますね。もっと小さなものでは個人的な怒りとか敵愾心。そういう議論が可能になる環境を破壊するもののほうが、議論によって打ち負かすべき相手よりも、よっぽど強大な「敵」だと感じます。(澤田)

——わたしは弱いですが、ま、目先の勝ち負けにこだわる意味はありません。それよりも、いちばん強いなと思っているのは、「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」の人です。目先の勝ち負けにこだわるとつい知ったかぶりをしてしまうものですが、わたしの先輩には、わからないこと、知らないことがあれば「え、それどういうことですか、わたし知りません」とすぐに質問する人がいます。こういう人は強いです。最終的にがっちり知識を身につけるのはこういう人です。(大西)

 

出口先生があんなに分かり易く正確にすぐに質問に答えられるということについて。どうしたらあんな風に答えられますか。やはり経験値なのでしょうか。

——知識量や経験値ももちろんあるんでしょうが、あれは真似できないなあと、いつも思います。どうなっているのか知りたいです。(澤田)

——これは出口先生の特殊能力な気がします。(白川)

 

【大学生活&高校生活&受験】

大学の授業で理系と文系の関係なくとれる授業にはどのようなものがあるか?

——少なくとも京大なら、大抵の授業は学部学科関係なく取れるんじゃないでしょうか。その授業をしている先生に「興味あるので授業参加してもいいですか?」と聞いたら基本的に断られないと思います。(山森)

 

今の大学生で哲学を学んでいる人はどんな意見をもってどんな意識で学問をしているのか。

——どの学問でも言えることですが、「(任意の学問)を学んでいる人」に特に共通点とかはないと思うんですよね。なので質問には「人それぞれ」としか答えられません、すみません。敢えて言うなら、抽象的に考えることが好きな人が多いので(人それぞれですが)、「抽象的に考えるの楽しいな〜」と思いながら学問をしている人が多いんじゃないでしょうか。人それぞれですが。(山森)

 

毎日何時間寝ているのか?

——平均6-9時間の人が多そうです。学会前や締め切り前は数日間寝なかったり、それが終わった直後は20時間近く寝る(寝込む)ことがあったりする人もいるみたいですが。(山森)

 

京都大学の特色入試を受ける場合、文学部ではELCAS受講一回で十分か?

——入試に関わっているわけではないので詳しくはわかりませんが、「ELCASを一回受講するだけで特色入試に受かる」ということはないと思います。(山森)

 

入試の現代文で、要素を完璧に書いた「悪い文章」と簡潔な「良い文章」ではどちらを書けばよいか? またその理由は?

——「良い文章・悪い文章」の「良い・悪い」は、その文章を書く目的によって異なります。ELCASで「良い文章」と言われていた文章は「『議論で相手を説得する』という目的における良い文章」です。「『相手をバッカンバッカン笑わせる』という目的における良い文章」ではないし、「『相手の涙腺をガンガン刺激する』という目的における良い文章」でもないし、そして「『入試で良い点数を取る』という目的における良い文章」でもない。入試では入試における良い文章(要素を完璧に書いた文章、『議論で相手を説得する』という目的においては「悪い文章」となる文章)を書いたらいいと思います。(山森)

 

勉強のモチベーションの保ち方は?

——無理に勉強しても長続きしないので、心から楽しいと感じるしかない。もちろん無理矢理楽しいと感じることはできないので、本当に楽しく感じなければならない。どの科目でも「勘所をつかめたぞ」という実感がでてきたくらいから楽しくなるが、そのためにはどうしてもある程度は時間をかける必要がある。(白川)

——これは明らかに「〆切を作る」ですね。若手研究者なら、学会発表に応募するというのがメインでしょうか。モチベーションはどうせ湧きもしないし保てもしませんが、発表の日は来ますので、とにかく準備をせざるをえない状況にするわけです。みなさんであれば、主に中間や期末のテストでしょうかね。その間にだらけてしまうようなら、まさに今回のELCASのように別の「〆切」を作ることですね。そんなダラけた気分なのに何で研究を続けてるのかと思われるかもしれませんが、不思議と、やめようと思ったことだけはないんですよね。(大西)

 

文学部では様々な分野の履修が可能だと思うが、「哲学と世界史」「文学と哲学」などの複数の分野の学習は可能か?

——もちろん可能です。京大の場合、3回生で研究室に配属することになりますが、ある研究室に所属しながら別のを勉強することは可能です。実際、哲学研究室でも数学や物理学を勉強している人は結構います。(山森)

——京大文学部は(というか日本の大学はどこも)外国の大学のような「副専攻」の制度はないので、公式に複数の専門をもつということはできないと思います。しかしそれはあくまで制度の問題であって、いろんな分野の授業に出たり勉強会を開いたり自分で勉強したり、いくらでも学ぶことはできます。先生方も、自分の研究室所属学生でなければ相手しないなんて人はいないはずです(いたら怒ってください)。どんどん質問に行って知識を吸収してください。(大西)

 

学校の先生に、できないことを馬鹿にされた際に、自分の心を前向きにする方法は何だと思いますか?

——心をポジティブに保つ方法は人それぞれなので、自分に合う方法を見つけてもらえたらと思います。「その先生を見返せるように頑張る」でも「その先生の愚痴を友達と言う」でも。ちなみに私が高校のときに採っていた方法を参考までにお伝えすると、「馬鹿にしてきた先生にこそ師事する」をしていました(プラスの方向であれマイナスの方向であれ「生徒に何か言いたい」系の先生は、「助けて〜!これ教えて〜!」ってくっついていくとノリノリで丁寧に教えてくれることが多い。その結果、自分のできないことができるようになるだけでなく、「その先生の懐に入った」という達成感も味わえて前向きになれます)。(山森)

 

定期テストの勉強で、いつも不十分なままテストを受けて、テスト中も憂鬱になる印象があるのですが、どうすれば解決できますか。

——「テストの準備始めなきゃと思ってるのになかなかできなくて、その結果準備が不十分となり、自己嫌悪する」という感じでしょうか?その場合、「とりあえず1分だけ勉強する」という気持ちで勉強を始めたらいいと思います。「いまから4時間勉強するぞ」だとしんどくてやる気がでないけど、「いまから1分勉強するぞ」ならなんとかできる。そして1分でも勉強を始めたら勉強し続けることができる。……と言いつつ、なかなかできないんですけどね。5回に1回でも成功したら自分を褒めたらいいと思います。(山森)

——安心してください。40歳を越えても同じことをくりかえしています。あきらめがよくなった、というのが成長といえば成長でしょうか。(大西)

 

京大は、講義とゼミと特殊講義がどれくらいの割合でなされるのか。ゼミの研究対象の例を教えてほしいです。

——専門によってちょっと違うと思いますが、2019年度の哲学の学部生向けの授業は「講義1、特殊講義4、演習(ゼミ)11、リレー形式ゼミ1」(集中講義という夏休みに行われる講義を含む)でした。詳しくは「京都大学 文学部 シラバス」で調べてください。(山森)

 

京大に通っていると京都の町の通りの名前は自然に覚えられるものですか?

——人によります。私(インドア&人と外出するときは道順を相手に丸投げ)はあんまり覚えていません。(山森)

 

【将来&人生について】

生活費をかせげるようになるまでにどれくらいかかりましたか?研究者を目指すと、何十年かけても(収入は)ゼロだという話をよく聞く。学派に左右されるものなのだろうか?

——奨学金など考えると進み方はいろいろあるんですが、ここではいまの京大哲学研究室の学生の標準的と思われるルートをお話します。
大学(4年)・修士課程(2年)を修了して博士課程(3年)に入ると、「日本学術振興会(学振)特別研究員DC」というものに応募できます。これに選ばれると、一般企業の給料と比べるとかなり見劣りはしますが、何とか生活できるだけのお金がもらえるようになります。狭き門ですが、京大の学生さんはわりと多くの人がもらっています。

外国に留学するという手もあります。この場合、日本の何らかの機関から奨学金をもらうか、現地の大学からお給料をもらうか、になります。給料の額などは学振研究員よりいいかもしれませんが、海外暮らしなわけですから、これはこれでたいへんです。

博士課程を出て博士号をとれば、次の目標は大学の正規職に就くことです。いわゆる「大学教授」です(ふつう最初は「助教」「講師」ないし「准教授」という肩書から始まります)。ただし、この博士号をとってから正規職に就くまで、いわゆる「ポスドク(ポスト・ドクター)」の期間が長く苦しいプロセスです。いまの時代は、どんな優秀な人でも、必ず正規職に就けるという保証はありません。ポスドク期間はゴールが見えないまま、何とか日々の生活費を稼ぎつつ、自分の研究もしつつ、という綱渡りを強いられます。これは日本でも外国でも同じです。

ポスドク期間は、日本では、学振特別研究員PDというDCの1ランク上の研究員をやったり(これはかなり狭き門です)、先生方のプロジェクトの研究員になったり(なかなかフルのお給料は出ません)、非常勤講師を掛け持ちしたり(お給料は信じられないくらい安いです)、ふつうにバイトしたりして、何とかみんな暮らしています。こういう仕事がうまく回ってくるかどうかは、学派というか、運や巡り合わせに左右されます。

こういう状況のなかで、自分で出来ることといえば、少し自分の間口を広げておくこと、つまり自分のやりたいことと少しずれていても機会があればチャレンジすること、そういう姿勢を周りの人たちに見せておくことでしょうか。処世術、世渡り術といえばそれまでですが。

まとめると、(1)博士課程くらいになると、がんばれば生活費は自分で稼ぐことが可能になります。もちろん「可能」なだけで100%保証されるわけではありません。(2)ポスドク期間はとくにゴールが見えないので苦しいです。とはいえ、何十年も収入ゼロみたいなことはさすがにあまりありません。うまくやれば何とか暮らしてはいけます。でも同年代で一般企業に就職した友人と比べてはいけません。いろいろと諦めないといけないことがあるのもまた確かです。

もうひとつ、これからは、博士号をとったからといって必ずしも大学教授がゴールとはかぎらないという時代です。博士人材として企業に就職したり、リサーチ・アドミニストレーター(大学の研究のマネジメントなどをする仕事)になったり、と、身につけた能力を活かせる道が増えてきています。あるいは独立研究者や学術系YouTuberになってしまうのなんてのもありでしょう。みなさんがポスドクになる頃には、いまよりはもう少しマシな体制になっているんではないかと思っています(そのためにいま私も多少努力しています)。(大西)

 

大学で哲学を勉強したいと思っているが「哲学を学ぶ=哲学者になる」というイメージしかない。他の選択肢は?哲学を学んで社会に役立つ大人になりたいが、例えばどういう職につけるのか?哲学の社会への役立つ仕方が気になる。

——同様の質問が他にもありました。哲学をやったからといってプロの哲学者以外の道が閉ざされるわけではまったくありません。京大の哲学研究室でも半分以上の人が、学部を出た段階で、あるいは修士課程を修了してから、いわゆる一般企業に就職しています。就職先は出版社やマスコミ、公務員などで、文系らしいといえば文系らしいかもしれません。

哲学が学問の世界の外側でどのように役に立つかについては、一つ例を見ましょう。私たちも使っているSlackというアプリの会社のCEOで、哲学修士を持っているSteward Butterfieldさんはこう言っています。「哲学は2つのことを教えてくれた。ひとつは、ほんとうに明晰な文章を書く方法、もう一つは議論をはじめから終わりまでたどって理解する方法だ。これは会議でほんとに役に立つ。」
https://www.forbes.com/sites/georgeanders/2015/07/29/liberal-arts-degree-tech/#2377b3be745d

このように、「明晰性」がどこでも役立つ哲学の美点として挙げられると思います。しかしこれだけだと、ただのロジカルシンキングおばけみたいな気もしますね。さいきん思っているのは、哲学はもっとも広い意味での「可能性」についての学問ではないかなということです。いまの私たちのあり方とは別のあり方も可能ではないかとか、どの程度までちがうあり方が可能なのかとかを限界まで追求しようとする学問ということです。科学的な研究や企業の経済活動は、やはりこの世界の「現実」にフォーカスしたものになりがちですので、そのような社会で哲学者が存在しているというのは、わりと重要な気がしています。(大西)

 

哲学を専攻したあと、将来どのような職につけるのか気になった(哲学を活かせる職でも関係ない職でも)。

——直接的に生かせる仕事がないかわりに、そこで培った分析力、発想力、論理的思考力、文献読解力etc. はどんな仕事にも生かせる。(白川)

 

哲学を自分の趣味ではなく仕事として選んだ理由は?哲学のことは好きだがそれを仕事にしようとは今の所思っていないので聞いてみたい。

——私は学部卒業後に一回就職したが、普通の社会人(毎日決まった時間に出社し、誰かの隣で何時間も作業をし、上司に笑顔etc.)を何十年もやっていくのは無理だと悟ったので、(実力主義で厳しいところもあるが)裁量労働制の極みのような研究者の方がマシだと思った。しかし今思うと哲学は趣味程度にしておいた方がよかったかもしれない…。(白川)

 

自分が正しいと思っていることが少し(一般常識から見て)偏っている場合はどのように考えるのがよいと思われますか?

——とりあえず隠した方が日常生活はスムーズに送れる。大人になって自分の意見を言える立場になったときには、むしろ隠していたその部分を晒すことで逆に世間的なウケは良くなるので、抑圧はしないようにしよう。(白川)

 

大人数で談笑している際、一人だけ価値観が異なり不快な思いをした場合にはどのように対処すべきでしょうか?(楽しそうな話なので、あまり不快だと伝えにくい場面だと考えてください)

——「不快」の感情というのはなかなか難しく、ケースによるとしか言えないところもありますが、「空気を読まない」ことが重要である場面は存在しますね。学問というのは、他人がなんと言おうが自分の正しいと思ったことを貫くものですから、研究者たるもの空気を読んではいけないんですが、なかなか勇気は出るものではありません。時々、場の雰囲気がどうであろうと率直に「それはちがうと思います」と意見を言える、学問的姿勢を体現した先生もいらっしゃって、そういう先生のことは素直に尊敬しています。(大西)

 

文学部は就職率が低いと聞いたことがありますが、本当ですか?

——たしかに経済学部や法学部よりは、大学院に進む人は多いが、そこまで低いとは思わない。よく言われることだが、文学部だから就職が不利なのか、就職に興味がない人が文学部に多く集まるのかよくわからない。少なくとも京大文学部に関しては、就職希望者はかなり上手くいっているようです。たしかに銀行などは文学部差別があるとかないとか噂を聞くが、そもそも銀行を志望する文学部学生は少ないだろう。正直な話、企業は学部教育に期待していないから、学部はほぼ関係なく、偏差値のみを見ているようです。(白川)

——検索していくつかの大学を調べてみましたが、たしかに経済学部などと比べると少し低い傾向はあるようですね。とはいえ、いずれも数%の差のようですから、気にするほどではないかもしれません。みなさんには、とにかく大学でしっかり学んでいただいて、「学部の名前でフィルターを掛けてくるような不見識な企業などこちらからお断り」と言えるくらいの人になってもらいたいと思います。(大西)

 

【参考文献について】

「時代の流れによって善は変わる」というようなことを論じている本はないか?

——もう少し広い観点からですが、アナス&バーンズ『古代懐疑主義入門』(岩波文庫, 2015)、第13章あたりを覗いてみてください。(澤田)

 

自己の範囲について考えるのに良い本はないか?

——出口先生が勧めてくださっているフランシスコ・ヴァレラ『身体化された自己』(工作舎, 2001)やドーキンス『延長された表現型』(紀伊國屋書店, 1987)は難しいかもしれませんが、面白いと思います。図書館で借りてください。あとは、我らの先輩の久木田さんや呉羽真さんが訳したアンディ・クラーク『生まれながらのサイボーグ』(春秋社, 2015)を読みつつ、押井守の映画『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』と続編の『イノセンス』を見るというのはどうでしょう?(澤田)